カリタス東京ニュース

カリタス東京ニュース2024年9月号

2024年08月23日

カリタスのとサポートセンター訪問レポート

今回は、名古屋教区のカリタスのとサポートセンター(サポートセンター)を訪れました。カリタス東京は災害対応も担っていて、今回の訪問では、能登半島地震の被災地の現状視察とサポートセンターと情報交換、並びに今後の協力についての話し合いを行うことにしています。

 7月18日、北陸新幹線でお昼に金沢駅に着き、カトリック中央協議会の緊急対応支援チーム(ERST)メンバーの漆原さんと辻さんと合流して、車で七尾教会を目指しました。金沢から七尾までの道路は補修がなされていて、比較的順調に走ることが出来ました。私たちは約1時間半かって七尾教会に到着し、そこでサポートセンターの片岡センター長(金沢教会主任司祭)と合流しました。七尾教会はJR七尾駅から歩いて3分くらいの町中にあり、カルメル会によって1953年に献堂された教会で、聖堂は「聖マリア・ゴレッティ」と名付けられています。教会聖堂の被害は、一部外壁が剥がれ落ち、聖堂内の床のヘリが少し沈下し、照明が揺れて壊れ、外構にひびが入るなどがありました。一方で、聖堂内のマリア像やヨセフ像、献堂50周年に設置されたベッツォティ氏によるキリストの生涯を描いたフレスコ画には大きな損害はなかったとの事でした。

教会の隣にある聖母幼稚園の旧園舎「聖母マリア園」にボランティアの活動拠点としてカリタス七尾ベースが設けられています。ベースで運営のお手伝いをしているイエスのカリタス修道会のSr.下崎 に案内をしてもらいました。建物の中にはボランティアが宿泊するための部屋が大小各一部屋(大6名 小3名)ずつ設けられています。6人部屋の中は、名古屋から運んできた特性の仕切りで区切られ、各自約2畳のプライベート空間とコンセントが確保されています。建物内にお風呂がありますが、近所の銭湯に行ったり、時々車で和倉温泉の日帰り温泉まで足を延ばすボランティアもいるとの事でした。カリタス七尾ベースには現在毎金曜日から日曜日に、個人で申し込まれたボランティアの方の受け入れを行っているとのことでした。ボランティアに来られる方は中京圏の方が多いけれども、関東圏からも来られているとのことで、年齢層は幅広いそうです。

 

聖母幼稚園の入り口前では、発災直後から「じんのび食堂」として炊き出しを行い、現在は日曜日に「じんのびカフェ」が開かれています。

 

七尾教会から次の訪問先であるカトリック輪島教会に向かいました。七尾教会のある地域はいわゆる旧市街地で、比較的被害が大きかったとのことで、今も大きく傾いた家があちこちに見受けられました。

 

輪島市に向けて「のと里山海道」を北上していくと、次第に路面を補修した跡の新しい舗装が目立つようになり、路面も少しうねっているような感じがしてきます。さらに北上すると、次第に、車線規制の個所が続くようになります。これらの場所では、一方の2車線が完全に谷に崩れ落ちて、もう一方の車線で対面通行になっていたり、完全に交互通行となっていたりして、頻繁に車線変更が求められます。このようなこところでは、ガードレールのポールがむき出しになってガードレールにぶら下がっています。また、特に橋梁と地盤の接合部には段差ができて、その個所の補修後も凸凹の状態となっています。さらに、道路わきの山肌が地震で崩れたままの状態の所があちらこちらでみられます。また、輪島市に近づくにつれて周辺の家屋で倒壊しているものが増えてきます。

 

輪島の旧駅舎を利用した道の駅周辺のホテルは、激しく損傷したままの状態で休業しています。ここから小高い山を上がったところにカトリック輪島教会があります。

 

輪島教会は1966年にカルメル修道会によって能登半島北部の布教活動の拠点として建立されました。輪島教会の聖堂と司祭館の被害は大きく、外壁が大きく剥がれ落ちて、窓も壊れ、聖堂内も地震で倒れたたり落ちてきたものが散乱していました。特に、祭壇の大理石の天板が一回転して落下し、床に落ちて割れているのが地震の揺れのすごさを想像させます。聖堂の扉には「危険」という赤紙が張られており、ガレージに止めてあった車がシャッターを突き破って外まで飛び出した痕も残ったままでした。片岡センター長の話ではこの聖堂と司祭館は解体する予定であるとの事でした。

 

輪島教会に隣接した海の星幼稚園の園舎は比較的新しいことから激しい被害は免れています。訪問した日は通園日でしたので、お迎えの方と園児が一緒に帰っていく風景が見られました。前江田園長の話では、園児数がコロナ前まで次第に増加しており、90名くらいになり100名まで増えるかと思ったら、コロナ禍、続いて震災が起こり、倒壊や火事で家屋やお店を失って県外へ行かれる方もいて、今は多い時の半数程度までに減少しているとのことです。しかし、幼稚園を継続することができていており、父兄の方々からも感謝されていますとのことでした。

 

震災前は、外部の畑を借りて園児が野菜の栽培をしていましたが、震災で道路が壊されて園児が行くのが困難になったために、代わりとして園庭にあった花壇に野菜を植えて畑として使っています。現在は、いんげん、とうもろこし、ズッキーニ等々の野菜を栽培しており、時々収穫をしています。園児では出来ない手入れは、各地から来られる高校生のボランティアの方々がお手伝いをしているとのことでした。

 

輪島教会のすぐ下には、プレハブ建ての仮設住宅がありました。輪島市内では、発災後ニュースでよく映されていたビルの倒壊現場や火災で焼けてしまった輪島の朝市のあった場所を訪れました。ビルは発災当時の倒壊した状態で、朝市の火災現場も何台か重機が入っていましたが、全焼したビルはそのままの状態でした。市内の倒壊現場では、重機が入っているところは少なく、家が倒壊したままの現場があちらこちらで見られ、復旧がなかなか進んでいっていない印象を受けました。ベース長の長井さんは、復興の進んでいる面がマスコミ等では強調されがちだけれども、発災当時のままで残っているところも多いいことを知ってもらいたい、また、輪島市の火災後はようやく重機が入って片付けが始まったが、その焼け跡には多くの被災者の思い出が埋まっていて、今まで皆がそこを発掘しながら片付けをしていたことを知ってもらいたいと話していました。

 

一方、途中寄った輪島市内のスーパーマーケットの中に出張輪島朝市のコーナーが設けられたり、輪島市内のあちらこちらに色々なタイプの仮設住宅が設けられていて、被災者の方が避難所から仮設住宅の生活へと変化しており、また、生活用品の物流も次第に復旧しつつあるという感じは受けました。

 

輪島市内から金沢方面に南下して羽咋に向かう車中から、大きながけ崩れの現場が目に留まりました。ここでは、まだ行方不明者の捜索が今でも続けられているとの説明を受け、震災の傷跡の深刻さを改めて実感しました。

 

羽咋教会に着くと、ベース長の長井さんが迎えてくれました。長井さんはカトリック富山教会の信徒で、現在は七尾ベースと羽咋ベースの運営を担当していて、各地域の社会福祉協議会との窓口になってボランティアの派遣先の調整等も行っています。カトリック羽咋教会は1969年に七尾教会の巡回教会として献堂されました。羽咋教会にボランティアの活動拠点としてカリタス羽咋ベースが置かれています。現在は火曜日から木曜日までの間、団体で来られるボランティアの宿泊施設として利用されています。部屋は2室あり夏休み期間中はカトリック学校からのボランティアが主に使うことになっているとの事でした。

 

翌日、カトリック金沢教会のカリタスのとサポートセンターの事務所で片岡センター長と待ち合わせをして、金沢市の近郊の内灘町に向かいました。事前に内灘町は液状化現象で家屋に甚大な被害が生じた場所との話を聞いていましたが、海岸線から少し内陸に入った地域を走っていると、隆起した地面にすべての構築物が持ち上げられ、あるいは逆に車庫のコンクリ―の壁が陥没して自動車が押し潰されているという風景が次々現れます。そして、多くの家の玄関には「危険」という赤い表示がはられています。

 

私たちは内灘町を後にしてサポートセンターの支援が検討されている七尾市内の仮設住宅2か所を訪問しました。最初に訪問したのは小島町の中学校の校庭に設置された仮設住宅の団地で、95世帯が入る長屋形式のプレハブ住宅でした。ほぼ入居済みのようで、各戸に日よけの為のすだれがかけられています。次に、能登島大橋を渡って能登島に入り、能登島の旧町役場の駐車場に設置された48世帯の仮設住宅の団地を訪問しました。ここの仮設住宅はコンテナ型の移動式木造住宅「ムービングハウス」といわれるものを使用していて、居住性が良いとされています。

長井さんによれば、「現在仮設住宅の建設が進み、仮設住宅に入る人も増えてきていますが、その方々の住居はあくまでも被災した場所であり、異なった環境、コミュニティーの中で、新しい生活しなければならない困難さに直面しています。同一地域から仮設住宅へ入居したコミュニティーもあれば、異なった地域の人々が一つの仮設住宅のコミュニティーを作るところもあり、後者の場合自治体づくりをするだけでも難しい面があります。カリタスのとサボートセンターはこれらのコミュティー作りを居住者の方々のサポートを通じて共にしていく予定です。これには、コミュ二ティー以外の方の参加が求められています。」と語っていました。

 

本土と能登島の間には、1982年に開通した能登島大橋と1998年に開通した「ツインブリッジのと」という二本の橋で繋がっていました。しかし、震災によって「ツインブリッジのと」の橋桁と陸側の道路との間に40センチの段差ができてしまったため通行止めの状態が続いています。また、能登島の観光の目玉である水族館も休業中(7月20日再開したとのことです。)で、「ツインブリッジのと」に繋がるメイン道路も盛り土部分が崩落したまま放置されています。

 

能登島を後にして、私たちは和倉温泉へと向かいました。和倉温泉に近づくと、休館中の旅館が道路の両脇に並ぶ光景が目に入ります。震災で温泉の源泉自体はダメージを受けなかったものの、上下水道と建物が甚大な被害を受けて休業を余儀なくされています。旅館の外構が崩れ、あるいは壁にダメージを受けたりしていて、復旧がまだこれからであるということが見て取れます。しかし、源泉は大丈夫で水道が開通したことから、日帰りの温泉施設は営業再開していてお客さんも入っていました。

 

能登半島地震の爪痕は、外から見るだけでも住居やインフラ、商業施設、観光施設に今でもありありと残っていて、復旧がこれから本格化しなければならないことを実感しました。人々の生活は避難所の生活から仮設住宅の生活へと変わっていくなかで、新しい生活が始まっていくところであるとの説明を受けました。仮設住宅のコミュニティーは昔のコミュニティーを承継しているところもあるが、まったく異なった環境の人が集まっている場合もあってその関係は一様ではなく、必要に応じてコミュニティーづくりへ外部からのサポートが求められる場合があるとのことです。

最後に、片岡センター長は、サポートセンターの役割について、建物や生活復旧のサボートを今まで行ってきたけれども、被災者が仮設住宅に入る様になって、復興のフェーズが仮設住宅におけるコミュニティテーへのサポートへと変わろうとしており、その中で、サポートセンターとして、限られたリソースの中で多くの数は出来ませんが、いくつかの仮設住宅のコミュニティーのサポートを行うことを考えていると話されていました。また、その中で、住民の方々が発災当時からずっと抱え続けている気持ちの「もやもや」、何をどうしたらいいのか解らない、将来どうなるのだろうか等々なかなか解決するのは難しいものですが、人に話をすることで一つ一つ何らかのものが見えてくることもあるので、コミュニティーに入って行って、人々と触れ合い話を聞くことがし大切になるとの思いを語っておられました。

最後にカリタス東京の田所氏は今回の訪問を終えて、「東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの時もそうでしたが、日本のカトリック教会の災害対応は、被災した教区が主体として緊急救援・復興支援を行い、その他の教区がそれに協力するというスタイルで来ています。その意味からも、東京教区(カリタス東京)には名古屋教区(カリタスのとSC)の活動に寄り添う支援が求められています。カリタスのとSCからの要請に沿って、カリタス東京としてできることを考えていきたい。」と述べていました。

 

カリタス東京活動報告

2024年生活困窮者支援団体・グループ交流会を開催しました

7月15日、関口会館ケルンホールにて生活困窮者支援団体・グループ交流会を開催しました。昨年9月3日に生活困窮者直接支援団体・グループ交流会を開催し、15団体から31人が集まり、2月2日には生活困窮者支援団体をサポートしているグループの交流会を開催し、11団体から17人が集まりました。今年は、支援活動を行う団体とそれらをサポートしているグループの合同の交流会を開催し、19団体から44人が参加しました。

交流会の前半の部分では、つくろい東京ファンド代表の稲葉剛さんに、「多様化する生活困窮者支援の現場から」のテーマで講演いただきました。後半の部分では、小グループに分かれて分かち合いを行い、日常の活動の中で感じていることについて意見交換しました。「出向いて行かないと本当に困っている人にたどり着けない」「『支援とは何だろう?』といつも自問している」「寄り添う支援を大切にしている」などの発言がありました。

平和旬間の講演会が開催されました

東京教区の平和旬間行事の一つとして、8月3日、麴町教会ヨセフホールにて、カトリック東京正義と平和の会主催の講演会が開催され、約90人が参加しました。講師は、恵泉女学園大学教授の斉藤小百合さん、テーマは「日本国憲法と東アジアの平和」。法の支配の大切さ、排除・切り捨てによる同質化を進める社会の危うさ、「『抑止力』は『ユクシ力(嘘の力)』などについて話されました。国民主義・平和主義・基本的人権の尊重を三原則とした世界に誇る日本国憲法をとおして「平和」を考える機会となりました。