愛の奉仕活動紹介

愛の奉仕活動紹介: Vol.34 社会福祉法人聖ヨハネ会

2025年09月22日

「社会福祉法人聖ヨハネ会」訪問レポート

今回は、東京都小金井市に本部を置く社会福祉法人聖ヨハネ会を訪問しました。聖ヨハネ会は東京都では小金井と清瀬市で桜町病院を始め特別養護老人ホーム桜町聖ヨハネホーム、聖ヨハネホスピス、小金井聖ヨハネ支援センター等を運営し、また、山梨県の忍野村では富士聖ヨハネ学園を始め、富士吉田市等で様々な知的障害者施設を運営しています。

小金井市にある本部を訪問して理事長のSr.西田和子さんと事務局長の竹川和宏さんにお話をうかがい、その後忍野村にある富士聖ヨハネ学園を訪問して富士北麓支援センター長の遠藤克彦さんにお話をうかがいました。

社会福祉法人聖ヨハネ会の法人本部棟です。

 

インタビューにお答えいただく西田理事長です。

 

インタビューにお答えいただく竹川事務局長です。

聖ヨハネ会の歴史は戦前の戸塚文卿神父様の桜町病院開設まで遡るとのことですが、その理念とその歴史について教え下さい。

1892年の誕生から1939年の帰天まで47年の生涯を「神に聴診器をあてた人」と言われたのが戸塚文卿神父様でした。戸塚師は暁星から一高、東京大学の医学部に進学し、首席で卒業した後北海道大学の助教授の時にロンドンに留学し、留学中にカトリック司祭への道に転じました。この時に戸塚師は「東京にカトリックの病院(神の家)をたてて、医者としてまた司祭として働くつもりです。僕は毎日僕と一緒に働いてくれる人を下さいと神様に祈っています。」と言われたそうです。1925年に帰国すると「聖ヨハネ汎愛病院」「ナザレト・ハウス」「聖ヨハネ病院」「海上寮」等を次々に開設し、帰天される直前の昭和14年5月24日に桜町病院が開院しました。

師の聴診器は世俗や名誉にはあてられず、神の聖旨に直接あてられ、慈善事業を行い、悩める人々の救霊のために全身全霊を捧げてこられました。師の意志はその後、知的障害児施設や特別老人ホーム、ホスピス等へと発展し、その精神は多くの人々によって今日なお生き続けています。

 

桜町病院の外観です。

戸塚師の帰天後にマザー岡村がその遺志を引き継がれたのですね。

当時、戸塚師の活動を手伝っていた信心深い婦人たちの中に後のマザー岡村となる岡村ふくがいました。この方は聖心女子大の学生で病気がちの方でしたが、戸塚師と親交のあったギガ師がフランスから来日し、西小山の教会でホーリークラウンによって信者を祝福された時に病気が癒やされ、戸塚師の活動に身を投じていきました。

戸塚師の帰天後、マザー岡村は病院が抱えていた借金を自ら全部お返しして、病院を教区へお返しにしますと土井大司教様に申し出ました。ところが、土井大司教様から「あなたが修道会をたてて病院を経営してきなさい。」と言われて、マザー岡村は祈って考え、これは神様の御旨だっていうことを感じてお引き受けになりました。聖ヨハネ会修道女会はこのように、戸塚師の活動を手伝っていた婦人たちの集まりが発展したもので、1946年に岡村ふくを創立者として設立されました。

エントランス部分です。

その後、さまざまな福祉事業に発展していったのですね。

1951年に社会福祉事業法が設立して、社会福祉法人聖ヨハネ会が設立されました。1952年に、戦争孤児を引き受けてもらえないかという要請があり、病院経営も大変な状況な中、養護施設愛生園を開設し、重荷を負った子供たちと共に歩む聖ヨハネ会の歴史が始まりました。そして、愛生園の児童の中に知的障害がある子どもがいて、地域からも知的障害者の施設の希望もあり、1956年に八王子に知的障害児施設甲の原学院が設立されました。1975年に甲の原学院が山梨県の忍野村に移転をして富士聖ヨハネ学園になっています。

その後、日本で高齢化社会を迎えるということもあり、また、地域からの要望もあって1986年に地域第1号の特別養護老人ホーム「桜町聖ヨハネホーム」を立ち上げて、その数年後には在宅サービスセンターでデイサービス等を展開していきました。1994年には癌末期のケアに着目し、桜町病院の中にホスピス棟を開設しホスビス活動を開始しました。障害者施設としては、山梨県に地元の方の通所施設、グループホームを開設し、東京地区においても障害者地域支援センターを立ち上げ、小金井・清瀬地区で生活介護等を展開しています。

桜町病院と他施設の配置となります。

マザー岡村は社会からの様々な支援要請にお応えになったその信念はなんだったのでしょうか。

彼女がいつも、「こういう小さなものを通して神様は偉大なことをなさる」また「私のような小さいものを通して」ということをいつも言っておりました。地域社会からの要請を神様のお示しと思ったら、その声かけをよく聞いて祈り、その時一番困っている人たちのために働くことを決断していくことになります。そして、福祉制度がまだ未発達の頃ですから、その実現のためにはアメリカまで行って寄付を募ったり、教会の前に立ってご寄付いただいたりあらゆる努力を惜しみませんでした。この創設者の「小さなものを大切にし、病める人、悩み苦しむ人、弱い立場にある方々への奉仕」というのが今の私たちの理念になっています。

特別養護老人ホーム聖ヨハネホームのエントランスです。

聖ヨハネ会と聖ヨハネ修道女会との関係はどのようになっていますか。

私どもの修道会では、事業体への奉仕を通して神様の愛、隣人愛を伝えようとしています。日本だけではなく韓国やミヤンマー出身のシスターたちが看護師、作業療法士、栄養士等として各施設で奉仕をしています。日本人とベトナムの看護師の方が新たに今年入りました。また。ベトナムから来ている若者が今大学で勉強していて、今年その一部の人が卒業して看護師や栄養士などの資格取っていて、現在もレントゲン技師と介護福祉士を目指して勉強している学生がいます。誓願を立ててから大学に通い、資格を取って働くようになるので、修道会としても長い年月がかかり大変ですが育てております。

聖ヨハネ女子修道会の小金井修道院です。

シスター方は看護師、作業療法士等以外ではどの様な奉仕活動があるのですか。

各事業体で、職員として、医療ソーシャルワーカー、障碍者のお世話を、又、傾聴やボランティアをしております。桜町病院で毎週コーラスボランティアを、又 1ヶ月に1回聖ヨハネホームにシスターたちで歌を歌いにいったりしています。私は毎日ご利用者さんの所をお声かけしながら回っておりますが、私が不在の時は、別のシスターに行ってもらっています。修道院では高齢のシスター方も自分にできることを奉仕しようとして、95歳であっても、私は食器洗いならできますと言ってしっかりやって下さっていますし、お祈りで奉仕して下さっています。とにかく何か自分たちで奉仕しましょうという気持ちが強いのです。

小金井教会との関係っていうのはどういう関係ですか。

私たちは小金井教会の集会祭儀やミサの典礼奉仕をさせていただいています。そして、信徒の方がボランティアでコーラスや老人ホームの洗濯物畳等のお手伝に来てくださっています。

小金井教会の外観と内部です。

コロナ禍で相当影響を受けたと思いますが、その経験から何か変化したことはありますか。

コロナの影響がまだ残っているような気がします。コロナ禍で病院の受診が控えられ、デイサービスのご利用も極端に減少し経営にかなりの影響を与えています。面会ができなくなったことも大きな影響を与えました。面会制限でリモートでしか会えないとかで、大きく世の中を分断してしまった出来事でした。ボランティアも徐々に復帰していますが、遠慮される方も増えてきていて、その影響は残っています。

桜町高齢者在宅サービスセンターのエントランスです。

公共の福祉政策に大きく影響を受けると思いますが、施設を運営していて現在直面している課題はなにかありますか。

ご自宅で過ごされるということを基本にされる老人の方が増加していて、私たちの支援のやり方をそういう所へシフトをしていく必要が出ています。一方で、特に高齢者施設や障害者施設では障碍が重くより介護等の必要な方をお受けいれなければいけない状況になってきています。老人ホームでは日本人の採用がなかなか難しくなっています。今、技能実習生や介護ビザをもっている外国の方々を採用しています。今は、インドネシアとミャンマーの方が多くなっています。これらの方は日本語が上手ですごく真面目です。そして、とても温かくて優しい方たちが多いです。彼らの母国ではおじいちゃんおばあちゃんが一緒に暮らしていて慣れているのだと思います

また、食材を扱うことが多いので物価高騰の影響をかなり受けます。しかし、その部分というのは公的報酬に含まれないものが多く、利用者さんにも負担してもらうことになるので、価格転換が難しい部分があって影響が出ています。

聖ヨハネホスピスのエントランスです。

この事業に関わっていてよかったと思う瞬間はどのようなときですか。

ホスピスでの患者さんとの関りの中で、今まで関係が良くなかった息子さんに連絡して最終的に和解して旅立たれるという瞬間に立ち会った時、施設の中でご利用者さんから笑顔で「シスター、来てくださって、嬉しいわ。」と言われた時、介護している時にその笑顔に接した時、また、聖ヨハネ学園で奉仕していた時に利用者の方の心の純粋さに触れた時等々さまざまな場面で本当にこの事業に携わって良かったなって思う瞬間があります。シスター西田

利用者の方の中には、なかなか心を開かれない方がいて、その頑ななところをいろいろな職員が絡んで少しずつ解きほぐしていき、その結果、その方が口を開いてくれて笑顔を見せてくれた時に本当にこの仕事に携わって良かったと思います。竹川さん

 

後日、聖富士ヨハネ学園の遠藤さんにお話を伺い、施設を案内していただきました。

富士聖ヨハネ学園の概要をお教え願えますか。

聖ヨハネ会が1956年に東京都の八王子市に前身となる知的障碍者児童施設「甲の原学園」を開設しました。「甲の原学園」が手狭になり、施設の老朽化も進んだことから、1975年に現在の富士聖ヨハネ学園に移転し、利用者と職員も引越をしてきました。当時は児童部と成人部があり、定員160名という比較的大規模な居住型施設でした。

時代が経っていく中で、入居者の加齢に伴い成人が増加し、一方、政策的に児童は出来るだけ親と入れる時間を大事にするため自宅から通うっていう流れから入居者がほぼ成人となり、私どもでは定員をシフトして定員122名の成人を学園で支援していくことになっています。

その中で、東京での生活を望む入居者の方もいて、東京にその活動拠点とグループホームを作ろうということになり、現在では小金井市と清瀬市でグループホームを運営しています。私どもはその時代、その人たちが必要としたものを事業にしていくというのが大きなこの法人の考えで、私どもでは制度化に先駆けて30年くらい前に利用者さんのニーズに合わせて既にグループホームを作っています。

さらに、この地域の方に何ができるかということを私たちも考えて、地域のニーズへの取り組みの中核拠点として、富士吉田市に富士北麓聖ヨハネ支援センター等を設立しました。

右下の白い建物が富士聖ヨハネ学園となります。

 

学園のエントランス部分となります。

東京から多くの方が来られていると思いますが家族の方とのコミュニケーションはどのようにしていますか。

家族との関係はコロナ禍で全く変わってしまいました。コロナ禍の前はいつ来ても会うことができて、月に1回くらい日曜日に家族の日を設けて家族同士の交流もありました、家族、地域での交流会として9月にヨハネ祭というお祭りをやっていました。お祭りでは地域の方や保護者会が店を出して、参加者も千人位となり、多くのご寄付を頂きました。保護者会が東京からバスを仕立てて来ていました。それがコロナ禍で出来ない様になってしまったのです。この間に、保護者同士が顔を合わせる機会もほとんどなくなってきています。

コロナ禍の規制はわずか三年ぐらいでしたが、この間、保護者の親御さんもお亡くなりになる方がいて、次第にご兄弟の世代に変わりつつあります。最近になって、自由面会が可能となり、電話で予約すれば土日関係なしに平日でも面会できるようになりました。ただ、昔の様に保護者が集まるっていうことはなくなっています。元に戻るのには時間がかかるのだと思います。

地元との関係はどの様になっていますか。

私ども地元は、6市町村の広域市町村のある富士北麓地域と呼ばれる地域です。先ほどの事業を通じた繋がり以外にも、当法人から6市町による富士北麓障害者基幹相談支援センター「ふじのわ」に連携のために職員として1名派遣していて、各市町村からの様々な相談に対応をしています。この様に、今では、相談、生活支援・就労支援・グループホーム等運営やその他のサポートを通じて、この地域の知的障碍者福祉の中核的な働きをさせていただいています。

 

富士吉田ケアビレッジ

 

富士北麓聖ヨハネ支援センターの外観です。

入所利用者の高齢化へはどの様に対応されているのですか。

65歳問題っていうのがあって、障害者も65歳を過ぎてしまうと、障碍者サービスから介護保険制度に移ることになるのですが、障碍者の支援では、知的障害に理解のある介護ヘルパーさんでなくては難しい部分もあります。急に特養へ移ることに支援での無理があり、特養でも受けいれることが難しい所があり、学園としてはできるだけ行政及び各機関と話し合いながら、本人の希望にそうこととともに支援体制の整った施設に移ることができるにように取り組んでいます。実際この施設入所中に病院で帰天され、学園で葬儀ミサをして、仲間に最後を見送られる方が年に数名います。

また、新たに入居される方は若い方が多かったのですが、昨今、親御さんが80・90歳になるまで家で世話をされていて、その後本人が50歳・60歳で入所してくる方もいます。

さらに、東京とかのグループホームに入った方が、70過ぎてから学園に

戻ってくるっていうケースが今結構あります。グループホームでは介助が全てできるほどの設備が整っているわけではないからです。

学園内の診療所です。

今の上皇が皇太子時代にここに来られたときはどうでしたか。

陛下は1976年に、ここにお出かけになり、施設での生活や作業をご覧いただきました。さらに利用者や職員にも励ましのお声をいただきました。施設の前の泥道があっと言う間に舗装されたのには驚かされてしまったそうです。

就労支援施設で特色のあるものを制作しているということですが。

就労支援センターBではせんべいを焼いて、その表面にレザーで文字を焼き付けたものを道の駅等で販売しています。また、神社の厄除けで使われる土器(かわらけ)を作っています。土器は投げて壊れてしまうものなので、次から次へ注文が来ます。特に、河口湖のかちかち山ロープウェイに乗り、頂上の見晴らし場のところにある神社には運勢を占う「かわらげ投げ」が外国人観光客にも好評みたいです。また絵馬の絵付け作業など地元ならではものがあります。

施設を運営していて現在直面している課題はなにかありますか。

学園で人生の多くの時間を過ごしている方が、できるだけ家族との関係が続けばいいと思います、そして、たとえ日々の生活で離れていても最後には一緒になれるような形になればいいと思うのです。しかし、コロナ禍でつながりを実感できなくなってしまい、兄弟とかと繋がらないケースもあり、せめて最後は帰るところに帰れるようにできればいいと考えています。

次には、職員の採用が難しいところあります。昨今では、福祉関係を避ける方が多くて、なおかつ、夜勤があるまた避けられてしまいます。この施設とかでセンターでも日勤の職員はある程度採用はあるのですが、夜勤となるとなかなか来てくれない傾向があります。

引越をしてきた当時は、職員宿舎があり全国から職員が来ていました。今では、地元からの職員がほとんどとなっています。若い人には、福祉関係の仕事を避ける傾向があるのですが、何らかのきっかけで関心を持ってもらえれば、就職に結びつく人がいます。実際、今年は地元の大学から4名、高校から1名が入ってくれました。幸いにも、私どもは離職率1%から2%で、他の施設に比べて非常に低くなっています。職員も高齢化が進んでいますが、定年後も嘱託等の形で継続して頑張って働いていただける方もいて助かっています。

学園内の食堂です。

この事業に関わっていてよかったと思う瞬間はどのようなときですか。

支援は仕事ではありますが、人生の意義と重なる部分があり、生きていて良かったと、自分の人生に帰ってくる場面を経験することがあります。ここでは言葉のみではないコミュニケーションが全てというようなところがあって、利用者とのコミュニケーションは笑顔や行動などを通じて直接心に入ってきます。

例えばある支援をし、あるいは企画で旅行をした時に、表現や仕草ですごく喜んでくれた時に「あ、成功して良かったな」と感じます。また、生活と人生に関わることが多いので、利用者さんの、「この人だったらこんな食べ物が好きだろう。」と考えて、外食時の企画を立てた時に、結果、よく食べてくれると良かったと思う様なります。なにか言葉を超えた、言葉以外も含めてすべてのコミュニケーションが自分の人生に繋がってくるという感じがします。

知的障碍の方はとにかく優しいのです。多くの言葉はないのですが、ピュアで裏がないのでこちらも嘘をつけないし、本当に何かできればと思っています。利用者ひとりひとりが「楽しい記憶」として心の中にのこる支援が、目的になります。