愛の奉仕活動紹介

愛の奉仕活動紹介: Vol.15 ほしのいえ

2024年07月22日

「ほしのいえ」訪問レポート

今回は東京都荒川区にある「ほしのいえ」を訪問しました。「ほしのいえ」は山谷地区で30年以上にわたって、生活相談、炊き出し、共同作業等の活動を通して、路上生活や簡易宿泊所生活を余儀なくされた人々の自立に向けた支援を続けている団体です。代表のSr.中村訓子さんがカトリック新聞に定期的に寄稿しておられ、ご存じの方も多いと思います。毎週火曜日に山谷地区の野宿者の集まる場所数か所で炊き出しとアウトリーチの活動を行っています。炊き出しとアウトリーチに同行するため2週にわたって取材をさせていただきました。

ほしのいえの外観です。

 

5月中旬、毎週火曜日に行われている炊き出しのおにぎり作りと玉姫公園での炊き出しに参加するために訪問させていただきました。午後1時にお伺いするとおじさん達とボランティアの人たちが既に集まりおにぎりを握る準備が出来ているところでした。

おにぎり作りが開始されると、ご飯150gが計量されて梅干とおかかが練りこまれた具を中に包んで、パットの塩の上を転がして握り、最後に海苔を巻いて完成します。完成したおにぎりはサランラップで巻かれて温かいまま保温ケースに入れられていきます。この日は180個のおにぎりを作ります。

おにぎりを丁寧に握って保温ケースに入れていきます。

 

本日のおにぎり作成チームです。

 

おにぎりが出来上がると、次は味噌汁の調理が始まります。具はジャガイモ、さつま芋、などでおじさんたちが食べやすい大きさに切っていきます。ほしのいえの味噌汁にはすりおろしたショウガとレモンを隠し味としていれます。そして、味噌は白みそと自家製の赤みその合わせみそを使用します。寸胴鍋にいっぱい味噌汁が作られます。アツアツの味噌汁は持って出られるように大きな保温ジャーに入れられます。

味噌汁は運搬のために保温ジャーに入れられます。

 

味噌汁が出来上がると、この日は新鮮な野菜が手に入ったのでサラダを付けることになり、レタス、ニンジンなどをボールに入れ、シスターがブレンドした特製ドレッシングがかけられて、混ぜてから、ジップロックに個別に分けられていきます。この日は、他にのど飴の寄付があってそれも配られることになっています。アウトリーチのコースごとにお箸とお味噌汁を入れるコップやおたまが用意されます。

サラダを作り、持っていくものの準備が整いました。

 

配布の用意が終わったところで休憩に入ります。シスターを囲んでお菓子を食べ、テレビで相撲観戦しながら世間話をします。この日の調理には「ほしくずの会」のメンバー3名がボランティアとして参加しています。「ほしくずの会」は福音ルーテル教会の方々が中心となって路上生活者支援活動を行っている団体で、発足当初から様々な形でほしのいえと協働し続けています。

ボランティアでお手伝いをしているほしくずの会のメンバーの方々です。

 

ボランティアの方がおじさんたちにマッサージをしています。

 

夜6時半を過ぎると、事務所には炊き出しに参加するボランティアの方々が集まってきます。7時半からコースの担当分けが行われ、当日の配布物の説明と注意事項が共有されます。その後、車2台に配布食糧と味噌汁を載せる折り畳み椅子を載せて出発します。

炊き出し出発前の打ち合わせと車に支援品を積み込んだところです。

 

この日は、山谷地区の中心にある玉姫公園での炊き出しに行く5人のボランティアの方に同行しました。玉姫公園は前回のレポートで昼間の山友会の炊き出しに同行しましたが、夜に行くのは初めてでした。到着すると既に30人近くの方が列を作って待っていました。

椅子を出して味噌汁のジャーを置き、おにぎりの保温箱も開けて配る準備をします。午後8時になると味噌汁をコップによそって、おにぎりと一緒に一人一人に渡していきます。味噌汁はその場で食べて、お替りの為にまた列に並ぶ人がたくさんいます。15分ほどで31人の方におにぎりと味噌汁、サラダと「のど飴」を配り終えました。味噌汁は保温ジャーが本当にきれいにカラとなります。比較的若い人も多くいて、ボランティアのおじさんたちが利用者の人達に声をかけていきます。その中で新宿の方から歩いて来たという人もいました。

配布が終了すると、車に備品を積み終わって事務所に引き上げますが、途中ボランティアのおじさんたちが自分たちのドヤの前で降りて帰っていきます。

事務所では各コースのボランティアが帰ってきて、配布数や状況を報告して解散となります。

炊き出し後の片付けをしています。

 

さて、翌週は東盛公園・山谷堀公園・清川公園方面のアウトリーチに同行しました。この日は、夕方から嵐のような雨風となり、しかも気温が低い中でのアウトリーチとなりました。さすがに、ボランティアの出足も遅くて、いつもよりは少ない人数での活動となりました。

アウトリーチは3名のチームで行います。まず、三ノ輪駅近くの東盛公園では10人くらいの人が待っています。ここでは、味噌汁のジャーをおろして一人一人におにぎりと味噌汁を渡していきます。寒い雨の中で皆さん本当においしそうに味噌汁を食べてお替りをしていきます。

次に向かったのが山谷堀公園です。山谷堀公園は道路に沿って縦に長く遊歩道のような公園で、利用者の方が道路沿いのいくつかの場所に立って待っています。この日は傘をさしていても横殴りの雨で全身びしょびしょになる状況の中で待っていました。ボランティアは視界の悪い中、待っている人を見落とさないようにゆっくりと車を進めていき、待っている場所で車を止めて、おにぎりと味噌汁を渡し、雨が強くなるから気を付けてと声をかけていきます。

次に向かった清川公園では、この雨の中、野宿の人が生垣の陰にずぶ濡れになった野宿者が佇んでいました。車を降りて声をかけ、おにぎりと味噌汁2カップを渡し大丈夫ですかと声をかけると、大丈夫と返事が返ってきました。

車は清掃事務所に向かいます。ここには、4名の野宿の人が毛布にくるまって寝ていました。一人一人におにぎりと味噌汁がいりますかと聞いて、いると答えた人に味噌汁とおにぎりを渡していきます。一人は、玉姫公園で他のチームからもらったので大丈夫という人もいます。軒下とはいえ横なぐりの雨がかかる厳しい夜を過ごすことになります。

全てのルートを廻り終わり事務所へと戻ります。

軒下ではあるものの横殴りの雨風が容赦なく吹き込んできます。

 

ほしのいえの代表でメルセス修道女会のSr.中村にお話をうかがいました。
ほしのいえは今年30周年をむかえられましたが、ほしのいえが始まった経緯をお聞かせください。

 山谷に関わり合うことになった原点は、私がまだ広島の修道院にいたころのある体験が大きく関わっています、その頃、私は大病して生死をさまよっている時に夢を見て、その中で群衆に抱えられた無原罪のマリア像が現れて私を生へと戻してくれました。その後、東京に出てきて仲間のシスターに誘われて山谷で働いている牧師さんの活動を手伝うことになり、夜、玉姫公園で野宿して寝ているおじさんたちの姿を見たときに、どこかで会ったことがあるという既視感を覚え、その夢を思い出しました。夢の中でマリア様を担いでいた人達はこの野宿をしている人達で、マリア様が生きるようにこの世に帰して下ったのはこの人達に尽くす為であると気が付きました。これが、山谷で私が活動するようになった原点で、1985年頃から修道会の許可を得て山谷で働き始めました。

ワンカップのお酒をやめて、ご飯を食べられるようにプロテスタントの方々と食堂や炊き出し、フリーマーケットをお手伝いしながら多くのおじさんたちと出会いました。当時、隅田川沿いには約200以上のテントが張られおり、山谷では野宿者が人達もあちらこちらに沢山いました。山谷は日雇い労働者の街として男が中心の社会で「闘争」という言葉が盛んに使用されていました。そのような街の中にも女性の野宿者も沢山いて、その人たちと女性的な視点から何ができるかを考えて、もう一人のシスターに声をかけて、聖母マリアのシンボルでもある暁の星にちなんで名付けた「ほしのいえ」を立ち上げました。野宿者の尊厳を守り一人一人が自立していけるように、夜回り活動、居場所作りとしての福祉作業所、ボランティアに山谷を理解してもらうための学習会等の活動を行っていきました。

ほしくずの会との関係について教えてください。

発足当初に一時期活動を中断した時期があり、その間に福音ルーテル教会牧師さんと信者の人達が炊き出しを継続してくれたことがありました。その集まりが「ほしくずの会」として今まで継続して資金的にも人的にも協働してくださっています。今日も会長さんをはじめ3名の会員の方がボランティアとして参加されています。

この30年間の活動の変化を教えてください。

炊き出しのやり方は現在も変わっていません。ただ、当初はおよそ300人以上におにぎり600個程度を配っていました。玉姫公園がいっぱいになってしまって、配布個所を増やした経緯があります。その後、バブル崩壊と高齢化が進み、山谷が労働者の街から福祉の街へと変化していくにつれて、炊き出しの数も減少していきました。コロナの時も私たちの活動は休むことなく継続しました。その間は、他のグループで休んだところもあったので増加しましたが現在では180個程度を配る状態になっています。

山谷地区では高齢化とドヤ住までの孤独化がいわれるなか、ほしのいえではおじさん達が炊き出しのボランティアとして参加しています。社会との繋がりづくりとの役割があるのですか。

65歳以上の人に生活保護が比較的おりやすくなってきましたので、私たちは高齢で病気や就業できない野宿者に対して積極的に生活保護を受けて、ドヤへ、自立できる人はドヤからアパートへと住居を確保するような活動をしてきました。ほしのいえでは単に野宿者の人々に支援をするのではなく、その人々が自立した生活ができるように支援するのを基本としています。ほしのいえに繋がって、生活保護をうける又は就業の機会を得る等して、経済的に自立し、生活もアパートに入り自活します。そして、仲間のつながりとしてほしのいえに集ってきてほしいと考えています。火曜日はみんなが集まってくる日になっていいて、おじさんたちが集まって世間話から公的な給付金の制度の話まで、いろいろな情報交換をしています。

自立したおじさんたちは自分たちが苦しんでいた時にほしのいえがしてくれたことを忘れず、炊き出し等のボランティアとして、ほしのいえの活動を様々な面でサポートしてくれています。また、その人たちがアウトリーチや炊き出しの活動する中で苦しんでいる人達に声をかけて、ほしのいえに繋がれるように連れてくることもあります。ほしのいえはこの当事者の人々の集いの場であるのです。

山谷地区の他の団体や地域との連携はどのように取っていますか。

立ち上げ当時、山谷についてほとんど知らなかった私たちは、キリスト教のグループ、労働組合のグループ等、様々な人々に教えてもらいました。その中で私たちは、シスターの活動としてキリスト教的な人権を大切にする視点を大切にし、他の団体との接点を大切にしながら活動をしていきました。野宿の人々を生活保護へつなげる運動は、医療相談会をやっている他の団体とも共同して行ったりしていました。また、隅田川の河川敷のホームレスに対する襲撃事件が起きたときは、「あうん」や「もやい」を始め地域の活動グループの人々が一緒になって山谷地域の学校をまわって野宿者の人々はどうゆう人なのがという話をして廻りました。自立支援センターの設立に他の団体と共同して入居者の立場に立った施設にするように要望と提案をしたりしました。

また、地元の商店街や地域住民とは、炊き出しの場所等を巡って様々な問題がありましたが、野宿者の命を守るために誠意を持って話し合いを続けました。この地域の理解を得るために、商店の方々や、不動産屋さん、近隣住民と様々な話し合いの機会を持ったことは、おじさんたちが自立に大いに役立っています。おじさんたちが自立するということは地域の中に入って地域の人と暮らすということで、おじさん達に対する地域の理解は大切だからです。

シスターの所には特に女性のホームレスの方の相談があるとのことですが。

女性はDV被害者、職を失ったシングルマザー等、特に行政や施設からの相談があります。女性は共同で生活するのに難しい面がありますが、自立すると一般的に男性より生活力があり生活自体はできるようになります。そして、ほしのいえから離れていけるケースが多いようです。仕事が出来れば、仕事の幅が広い。そして、何かトラブルがあると相談の連絡があります。

30年間、炊き出しで暖かいおにぎりと味噌汁を週一回配り続け、おにぎりと味噌汁に託されたメッセージは何でしょうか。

食べるというということは生きるといいうことであり、その日につくつた温かい食事を提供して、生きている命を大切にするという意味を伝えられればと思っています。

亡くなった仲間のおじさんを共同墓地に葬っていると伺いました。

亡くなったおじさん達の遺骨は、親族が見つからない、親族がいても遺骨の引き取りを拒否されてしまう場合も多く、以前は司教様らのご厚意でカトリックの墓地に納骨をさせていただくケースもありました。

山谷にある光照院のご住職は、自ら野宿者の夜回りをやっていて、また、他のカトリック系の団体ともつながりがある方でした。ほしのいえに関係する方が山谷のホスピス「希望の家」で亡くなった時、住職が見えていて、お墓の話になりました。 

それまでのカトリックのお墓は山谷から距離的に遠く、おじさん達が仲間のお墓参りになかなかいけない状況でした。そこで、皆がもっと簡単にお参りができるところということで、地元の光照院の共同墓地に受け入れてくださるというお話をいただき、入れさせてもらうようになりました。ここには、山友会やきぼうのいえの共同墓地もあります。このお墓の観音像は、宗教を問わずだれでも入っていいんだよという意味を込めて、十字架の付いたロザリオを持っていらっしゃいます。カトリック新聞にも書きましたが、光照院の御住職が東日本の被害者の方々を慰霊する為の大仏を建立するプロジェクトを進めていて、ほしのいえも十字架が印された水晶球を大仏内に収める計画に協力しています。