カリタス東京ニュース
カリタス東京ニュース2026年6月号
2026年05月20日
愛の奉仕活動の紹介コーナー
「社会福祉法人聖母会」訪問レポート
今回は、東京都新宿区に本部を置く社会福祉法人聖母会を訪問しました。聖母会は東京都新宿区で聖母病院、訪問看護ステーション、介護施設聖母ホーム等を運営し、北海道では児童養護施設天使の園、神奈川県では聖母の園保育園、介護施設聖母の園、地域ケアプラザ(2施設)、熊本県では介護施設聖母の丘、鹿児島県では平和の園保育園(種子島)や介護施設奄美の園(奄美大島)等々全国的に多数の福祉施設を運営しています。
東京都新宿区にある本部を訪問して理事長の高山貞美神父様(聖心布教会司祭)と事務長の尾羽正帆さんにお話をうかがい、その後聖母病院を訪問して病院長の宮越敬さんにお話をうかがいました。

社会福祉法人聖母会の聖母病院です。

インタビューにお答えいただく高山理事長です。

インタビューにお答えいただく尾羽事務長です。
聖母会の歴史はマリアの宣教者フランシスコ会がハンセン病患者をケアするために5名のシスターをローマから派遣されたことから始まったとのことですがその経緯について教えてください。
パリ外国宣教会のジャン・マリー・コール神父様は1895年に熊本でハンセン病患者のための中尾丸施療院を創設し、1898年にコール師はマリアの宣教者フランシスコ修道会の総長マリ・ド・ラ・パシオンに後継者としてシスターを派遣してほしいと依頼しました。会の創立者でもあり、ハンセン病への強い思いのあった福者バシオンはローマから5名の若いシスターの派遣をする決断をしました。
どうして福者パシオンがハンセン病に対して熱い思いを持っていたのかというと、彼女はまずハンセン病患者に出会ったことが回心のきっかけとなった中世イタリアの聖人アッシジの聖フランシスコを心から敬愛していたこと、またキリシタン時代にペトロ・バプチスタ神父をはじめフランシスコ会の兄弟たちが京都や江戸でハンセン病患者の世話をしていたことを知っていたこと、そして彼女自身も20代から30代までの約10年間暮らしたインドで、悲惨な状況にあったハンセン病の人々と出会い、彼らのお世話をしたという実体験によるものだと考えられます。福者パシオンはハンセン病に関することなら、どんな困難があっても万難を排してでも引き受けるという信念を持っていたと言われています。

聖母会の歴史展示パネルより派遣された5名のシスターの写真です。
シスター方はどのように活動を始めたのでしょうか。
派遣されたのはほとんどが20代の志を持ったシスターでした。シスター方は日本語や日本の習慣を学ぶことから始めました。しかし、熊本に来てから1ヶ月たっても、ハンセン病患者の方々の足の傷を洗って治療をしたいと思っても、足を出してくれる患者の人はいませんでした。やはり社会から疎外されて、家族からも見捨てられた状況の中で人を信頼することができなくなっていたのでしょう。ハンセン病の方たちに拒絶されてショックを受けているシスター方を見て、コール師は1週間の休みを取って祈りの時間を与えたそうです。そして、1週間後に再び施療院に行くと大勢の患者の人がシスター方の治療を受けようと集まってきました。イエスが最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗い、人々に仕える模範を示されたことは聖書に書かれています(ヨハネ13:1-20)が、同じ精神に基づいてシスター方がハンセン病患者の方々の足を洗った出来事が聖母会の歴史的、精神的原点です。

聖母会の歴史展示パネルよりシスターがハンセン病患者の足を洗う写真です。
熊本や他の地域で様々な福祉事業を始めていますね。
中尾丸施療所(定員:30名)は納屋のような建物でしたが、患者が増えたために受け入れきれなくなり、新しい病院の建設が必要となりました。多くの困難の末、1901年に琵琶崎に待労院(定員:85名)が開設されました。待労院という名前は、コール師が聖書の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)に由来して付けられました。ハンセン病患者の子どものための育児院や路傍に捨てられていた老人を引き取ったことを契機として琵琶崎聖母養老院(現、聖母の丘)、また一般患者のための診療所(現、熊本市の慈恵病院)が次々と設立されていきました。
一方、北海道では1911年に札幌天使病院(2003年に別法人に譲渡)、1930年に北広島に子どもの施設(現、天使の園)が誕生し、東京では1931年に国際聖母病院(現、聖母病院)、同年に「聖マルグリット養老院」の事業(現、聖母ホーム)をあけの星会から引き継ぎました。また、神奈川県では終戦直後に児童保護のための施設(現、聖母愛児園)等が設立される等これら以外にも様々な地域で活動が広がっていきました。
聖母病院は1925年に戸塚文卿神父様が東京での国際病院設立案を提出し、それをシャンボン大司教が具体化し、その後戸塚師よりマリアの宣教者フランシスコ修道会へ病院の建設計画と協力要請があり、シスター方は経済恐慌で財政難にあったにもかかわらず国際聖母病院の経営を受諾しました。

聖母会の歴史展示パネルより戸塚師とシャンボン大司教の写真です。

現在の聖母ホームの外観です。
法人組織も時代と共に変遷をしていますね。
1929年に熊本で社団法人マリア奉仕会として法人認可となりました。その後、第二次世界大戦中には、大和奉仕会に名称変更されました。戦後、1952年5月に現在の社会福祉法人聖母会となります。1952年12月にはマリアの宣教者フランシスコ修道会が宗教法人として認可され宣教活動と社会福祉活動が法律上分けて運営されるようになりました。
社団法人マリア奉仕会の法人認可(1929年)から数えて、3年後の2029年には聖母会創立100周年を迎えます。大きな節目となりますので、そのための準備をこれから少しずつ進める予定です。


東京都選定歴史建造物に登録された聖母病院です。
マリアの宣教者フランシスコ会のシスター方が各施設で奉仕されていると聞いていますが、マリアの宣教者フランシスコ会との現在の関係はどの様になっていますか。
宗教法人と社会福祉法人に分かれた以降もシスター方は聖母会の理念であり、 修道会のモットーでもあるキリスト教の愛の精神に基づいて、最も困っている人に手を差し伸べ、社会の隅に置かれた人を支援する活動を聖母会の中で継続してきました。
どこの修道会でもそうですが、日本人シスター方がだんだん少なくなって、高齢化していき、社会の第一線から手を引いて行く流れの中に聖母会もあります。そんな中にあっても聖母会の理事会には2名、評議会には5名のシスターが入っておられます。人数は少なくなっても、シスター方の存在の大きさというものは圧倒的なものがあります。私たちはシスター方によって精神的に守られています。確かに施設によってはそこで奉仕するシスター方の人数が少なくなったり、あるいはゼロというところもあります。しかしながら、施設長や職員の一部が若い頃にシスター方の良い影響を受けている場合も多く、カトリック信者であるなしに関わらず、カトリックの精神や聖母会の理念が施設長や職員たちにどれほど深く浸透しているかを理事長としてはみていく必要があると考えています。

大聖堂前にはルルドがあります。
追悼ミサを11月に各施設で行っているとお聞きしましたが。
聖母病院、聖母ホーム、聖母の園、聖母の丘、奄美の園等の施設では追悼ミサを死者の月にあたる11月に行っています。去年は私もいくつかの施設に行って、追悼ミサを捧げました。最後の最後まで、その人らしく人間の尊厳をもって生き、そして亡くなられた後もその人のことを偲び大切にするという意味で、追悼ミサという習慣がカトリックの伝統として、今でもカトリックの施設に息づいています。こうした祈りの文化というものは大切にしたいと思っています。
追悼ミサをささげる際に、その方々の人生を理事長1年目の私自身はほとんど知らなくても、神様の愛によって生かされて最後まで生き抜いた方々の生涯を、施設の職員の人たちの方がよく知っているので、みんなで共にささげることができるっていうことは意義深いことだと感じています。
聖母病院では赤ちゃんのためにも追悼ミサも捧げるとのことですが。
聖母病院ではお腹の中で亡くなられた赤ちゃんのためにも追悼ミサでお祈りをします。
わが子を亡くした若いパパやママが追悼ミサに来られる時には本当に心が痛みます。ただ、ご遺族の方々にとってカトリックの追悼ミサにあずかることは、亡くなった人を悼み悲しむことであり、グリーフケアになるのではないかと思います。死を受け入れることは、本当に長い時間がかかることだと思うのですが、少しずつその悲しみを受け入れるというグリーフケアの一つに追悼ミサはなり得るのではないかと思っています。


大聖堂の外観と内部です。
多くの赤ちゃんを祝福なされるお恵みは神父様としていかがでしょうか。
先ほど赤ちゃんの祝福の場面をご覧いただいたように、聖母病院での赤ちゃんの祝福は私にとってカトリックの神父として、慈しみ深い神様の愛によって人が誕生するその場に(正確に言うと、赤ちゃんが生まれて1週間内に)立ち会えることは本当に嬉しく喜びに感じます。希望されるご家族の赤ちゃんを祝福するのですが、赤ちゃんの笑顔、すやすや眠っている顔、泣いている顔、そのすべての表情が新鮮で、愛おしく感じます。パストラルケアワーカー(内1名はマリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター桑原)の方々と共に、カトリック系病院ならではのお仕事をさせていただいています。


赤ちゃんの祝福式の様子です。
理事長としてのミッションは何になりますか。
それぞれの施設に各々課題はありますが、一人ひとりの職員が聖母会の理念をよく理解し、働きがいと生きがいを持って喜んで働いているかどうか、そして、シスター方によって培われた聖母会のこれまでの歴史をさらに実りある豊かなものとして受け継いでいけるかどうかを絶えず意識しています。 というのは、カトリック系の施設だからといって、喜んで人に仕えるカトリックの精神が職場全体に自然には伝わらないので、それを地道に深化させていくのが一番のミッションだと思っています。
この事業に関わっていてよかったと思う瞬間はどのような時ですか。
まず、聖母会の施設は、北は北海道から南は種子島や奄美大島まであり、守備範囲が大変広いです。遠くにあってもできるだけ多くの施設と関わりを持ちたいと思い、尾羽事務長と共に聖母の丘や奄美の園の運営会議に定期的にオンラインで参加しています。近くの施設の重要な会議には対面で参加していますが、そこでの会議のやり取りを聞いているだけで真剣さが伝わってきます。
この事業に関わってよかったと思うことは、聖母会には、病院、介護施設、児童養護施設、保育園、地域ケアプラザ等の多様な施設があり、その一つひとつの活動が地域社会に密着しており、社会の現実を知るために大変勉強になります。また、先程も申し上げましたように、赤ちゃんの祝福や追悼ミサに関わることによって、いのちの尊さや人生の重みを改めて感じることができ、それは聖母会で味わえる貴重な経験であり、今この年齢でこのお仕事をいただいて本当によかったと思います。職員一人の中に仕える心と祈りの文化が根付いてほしい、というのが私の願いです。
この後、聖母病院を訪問し宮越病院長にお話を伺いました。

インタビューにお答えいただく宮越病院長です。
病院の概要をお教え願えますか。
ほぼ全診療科を有している総合病院です。病床数は154床で、大きく分けると母子医療と高齢者というところに軸を置いています。

聖母病院のエントランス部分となります。
パストラルケア室というのはどのような部門なのでしょうか。
パストラルケアワーカー(内1名はシスター)の方々が入院患者さんのお気持ちなどをうかがって、心に寄り添うという形でケアをしています。カトリックの病院に特徴的な部署だと思います。主には入院患者さんのところに出向いて、病院の理念にある霊的ニーズに応えるという役割を担ってもらっています。シスターに伺うと入院生活では治療に専念する点も重要ですけれども、自分を振り返るというところも、特に高齢の方からすると大切な時間で、あまり人に今まで言えなかった話を聞いてもらい、入院生活が穏やかになるというようなことがあるとうかがっております。
この病院の地域における役割はどのようになっていますか。
新宿区には大きな病院がたくさんありますが、大きな病院に行くのはなかなかハードルが高いというような方々も、気安く来ていただけるような雰囲気が聖母病院にはずっとありました。特にコロナ禍以降は、各病院も自分たちの病院の特性に合わせて住み分けをしていて、大学病院は医療上で中等度以上と重症という方をメインに受けていて、聖母病院は軽症から中等症の方が割と来やすい病院であり、地域の先生方も聖母病院で何ができるかを分かっているので、この状態であればまず聖母病院にというようなことで地域からもうまく使っていただいています。
また、救急車もコロナ禍からはだいたい年間1000台以上受けるような状況になっています。特に新宿の消防署の方からすると、どうしても聖母病院というと出産、あとは母子医療の印象が強く、女性の方の救急疾患という場合に、特に若年の方でちょっとお腹痛いような場合に、消防署の担当の方の判断で聖母病院にまず見てもらえれば、それだけでも違うというような感じを持たれています。消防署からは女性の症状に対して、聖母病院の場合には、女性に優しい病院ってイメージがあるので、なんとか前向きにどんどん受けていただきたいというリクエストがありました。
コロナの時に、消防署の方も聖母病院が意外と救急を受けてくれるということが分かったのだと思います。特にここの立地条件から考えると、新宿、中野、豊島、あと練馬の境目に位置する病院になるので、どうしてもニーズが高いということになります。

聖母病院の建物全体の模型が展示されていました。
聖母病院というと母子医療というイメージが強かったのですが、近年は高齢者医療にも力を入れているとのことですが、その点を教えていただけますか。
聖母病院で出産の数がひと月に約100〜120名です。都内の同規模の病院であれば多いと言われる数ですが、聖母病院で多い時にはひと月に約180名でしたので、かなり少子化の影響を受けています。病院の立地条件も江東区などと違って若年層が流入してくるわけではありません。
今まで、病院の経営は母子医療に依存していましたが、今後は母子医療のみに依存していくことはできなくなります。一方、地域医師会の先生たちに聞いても、この新宿区の落合地区は高齢者が特に多いとのことです。高齢者からすると、大学病院はなかなか行きづらく、よほど具合が悪くならないと行きません。まずは、受診しやすい地域のクリニックに行き、その後クリニックから場合によって心配だから入院させてもらえる病院という意味で聖母病院への要望が高いので、高齢者医療に力を入れていかないと、地域のニーズに応えられないと考えました。高齢者医療に力を入れることで病院の経営上も少し安定すると思います。
聖母ホームを同一法人で運営していることもプラスとなっていますか。
聖母ホームと連携もあり、職員の方々が高齢者へ接することに比較的ハードルが低くなっています。この近隣に他の介護事業施設もありますので、そちらとも連携をして、パイプを太くしていくことを考えています。私が聞いている範囲では、新宿区内とこの近隣に、特に高齢者に慣れた中規模で比較的小回りのきく病院が聖母以外にはあまりないと思います。

隣接する聖母ホームのエントランス付近です。
地域の診療所や地域の大病院との連携はどのようになっていますか。
今は患者総合支援部というクリニックや大学病院などとの橋渡しをするところがあります。そこを経由して、かかりつけの医師の方から入院が必要な患者さんがいる場合、もしくは大学病院から急性期の治療が終わったので、回復やリハビリテーションなんかを考えている患者さんがいる場合に紹介されてきます。
母子医療に関しましては、従来は病院で妊婦健診を含めて、最初から最後まで全部同じ病院で診ていくというようなやり方がほとんどでした。しかし、お産が多い施設からすると、妊婦健診だけで外来が混み合ってしまいます。また、働きながら出産する女性も多いので、例えば日曜日や、夕方に外来をやっていないと健診を受けることが難しくなる場合があります。女性のニーズを考え、例えば最初一時期に聖母病院に来てもらい、その後一定期間はご自身が利便性の良いクリニックで健診を受けてもらいます。大体この近隣のクリニックの先生は顔が見えますので、そのクリニックでどんな医療をやっているか、逆に言うと、クリニックの方でも聖母病院がどんな医療をやっていて、妊婦健診の場合に何が必要か大体解っています。そのため妊婦さんにとっても病院・クリニックにとっても便利な妊婦健診システムと考えています。
新宿区には大きな病院があり、その立地条件から考えると、大学病院との連携を密にすれば、患者さんも遠いところの病院に行くよりは同じ新宿区内で完結した方が負担が少ないので、去年あたりから、慶應義塾大学病院や東京医科大学病院を中心に、自分たちのできる範囲を明確にしながら連携を進めているのが現状です。

病院の中庭です。
外国人の方に対して多言語で受け入れているとのことですが、状況はどうですか。
幸いにも従来からシスターが基本的には英語対応してくださっています。数年前からミャンマーのシスターが赴任してミャンマー語、他にはスペイン語とフランス語の通訳の方がいます。大使館との関係のあるビザ健診を積極的にやっています。外国籍の方が出産されるケースも多いのですけど、我々医者のみならず、特に助産師さんたちが、言葉のハードルが低くて、身振り手振りもまじえて普通に対応しております。中にはフランス語、イタリア語、英語の日常会話を話す助産師がいますので、外国籍の方にとっては安心できる環境だと思います。
病院を運営している中で一番課題と困っていることはなんですか。
一番の課題は経営改善です。よく言われているように他の病院と同様経営は財政的に厳しい状況です。病院としてカトリックの精神に基づいて奉仕するということと今の社会情勢や働く若い世代の方の多様化に合わせいろいろなものを変えていくことが求められていますが、運営の変化がなかなか追いついていかない現状があります。幸いにも永年勤続の方も多くいて、人事的に安定性はあるのは良いのですが、その反面、外からの風が入ってきづらいのが一つの課題だと思います。カトリック的な思いは引き継がれております。ただ、変わるべきところも少なくなく、業務の見える化や取捨選択を推進する必要性を感じています。
二つ目は、母子医療の場合は自費診療ですから、出産の後はすぐに皆さんから支払われます。保険診療の場合は、ちょっと時間が経ってからの入金になります。このことが経営に影響しベッドの空き率に付いてもより厳しい基準で考える必要性に迫られます。少子高齢化に対応する経営と意識改善も必要になっています。
カトリックの理念に基づいた看護や対応は評価が高いのですから、私たち一人ひとり、どのような行動変容が必要かがわかれば、ものすごく良い方向に行けると思います。
死産になったお子さんへの対応で驚いたことがあるとのことですが。
先日、妊娠7ヶ月半ばに胎盤早期剥離でお腹の中で亡くなったお子さんを事情があって帝王切開で取り出しました。通常大学病院ではその後一定の時期に火葬にします。その時、さすがだなと感じたのは、亡くなっているお子さんを涼しい霊安室に安置し、両親のリクエストがあれば、連れて行って、本来着せる予定の洋服を着せたり、沐浴させたり、おむつ変えを1週間なさっていました。妊娠7ヶ月半ばですから、1500グラムぐらいのお子さんで、今でも普通にオギャーと言いそうな感じでした。ご両親も悲しいのだと思うのですけども、少しでも天に召されるまでの時間を一緒に過ごしてもらおうということで、助産師たちが支えていました。お母さんやお父さんにとって、現実を少しずつ受け入れやすくなるという感じだと思います。看護師長に以前からこのようにしているのですかと聞いたら、これが普通ですと言われました。多分、これまでシスターたちがやっていたことを、シスターたちが口伝で伝えてくださり、今の職員の方々がそれをきちっと理解して、次の世代に伝えようとしているのだと思います。
それから、やはりお子さん亡くされたとか、あとは流産の方々は原則として個室対応にしています。
やっぱりそういう寄り添う心っていうのはすごいと思います。

病院の中庭の病室から見えるところに聖フランシスコの像があります。
この事業に関わっていてよかったと思う瞬間はどのようなときですか。
私は今まで大学病院や公的病院で勤務したのち聖母病院に来ましたが、ここでは患者さんとの距離が近いっていうのがすごくいいなと思います。また、この病院自体、中規模だということもあって、医療者間の距離も近く感じられ、職種が違ってもお互い顔が見える距離感だと思います。この立地条件にありながら、非常に温かみのある施設になっていますし、働く環境としても何か非常に恵まれていると感じています。敷地内にお御堂があったり、庭があったりして、春の桜も綺麗です。聖母病院のような地域の病院では、すべてを教科書のどおりやるわけではなく、やはり受診者や家族の思いを中心に対応することが大切です。そして、私たちが地域に根ざした病院としてニーズに応えることができれば非常にうれしく思います。
7月号では聖母会訪問レポートIIとして、聖母訪問看護ステーションと聖母ホームのレポートを掲載予定です。
カリタス東京活動報告
能登半島地震ボランティア参加報告
事務局 田所 功

4月16日~17日、カリタスのとサポートセンターのボランティア活動に参加して来ました。これまでは七尾教会にある七尾ベースに宿泊していましたが、今回は輪島教会にある輪島ベースに宿泊しました。これは、カリタスのとサポートセンターが七尾ベースの規模を縮小し、昨年9月に新設した輪島ベースでの活動を強化したためです。16日はソフト系の活動でした。

輪島ベースでは、木曜日と土曜日に仮設団地の集会所で「じんのび(のんびりの意)カフェ」を開催しています。この日の午前中は、翌週開催する仮設団地に行って案内チラシの配布を行いました。約200軒へのチラシ配布でしたのでサポートセンターのスタッフだけではたいへんで、ボランティアの協力が必要な作業でした。午後は、二俣町第一団地での「じんのびカフェ」に参加しました。お茶を飲みながら会話したり、折り紙をしたりの活動でした。17日は、作業系の活動でした。午前中は、アパートから公営住宅団地への引越しのお手伝いでした。午後は、公費解体後の宅地整備のお手伝いをしました。作業系の活動は減ってきていると聞いていましたが、たしかに公費解体前の家屋の片づけは減っていますが、これからは仮設住宅からやみなし仮設として入居しているアパートからの引越に関する支援ニーズは続いていくものと思われます。

カリタス東京では今後も定期的に現地に赴いて、カリタスのとサポートセンターの活動に協力していきたいと考えています。参加してみたいと思われる方は、カリタス東京事務局までご連絡ください。
- 電話:03-6420-0606
- E-mail : info@caritastokyo.jp


